おばあちゃんを思い出すと手を振る時の手の角度がいちばんにやってくる。
金時計の下で待ち合わせて、高島屋。年に数回のめちゃくちゃ楽しみだった行事。エンジェルブルーとか、ピアノの発表会のワンピースとか。帰り道ホームが隣でどっちが先に電車に乗るかなとか、そして見えなくなるまで、紙袋とかの音カサカサさせながら手を振り合う。
みのもんたとタモリが嫌い。でもわたしたちは観たいから、おばあちゃんは彼らに背を向けわたしらと向かい合う形でテレビを観てた夏休み。麺つゆとかでむせて咳き込んでいるのにすぐに風邪ひくよ!ってあったかいものもってきてくれたり。ねえ今7月だよ〜って笑う。帰るときは車が角曲がって見えなくなるまでやっぱり手を振ってくれる。時が経って車が角を曲がるところを見られなくなっても縁側から、やっぱり見えなくなるまで手を振ってくれる。
おばあちゃんのそれはきらきらって感じのやり方で、手首のところが特にかわいくてすきだ。前歯抜けてた頃バローで、迷子になって「ときおばあちゃーん!!」ってさけんだら、そこらのおばあちゃん、おばさんが一斉にバッてこっち向いたかわいい思い出をわたしは今もきちんと持っている。(土岐は地名)
出逢いと別れは絶対だし、創造と破壊の人生だみたいなことをちゃんとずっと思ってきたつもりだったけど、そこに現実味を連れてきてくれたのはおばあちゃんで、良い時期に良い経験をさせてくれて本当に本当にありがとうの気持ち。たぶん今おばあちゃんのことを思い出す時間が過去1番多い。過去そのものは変わらなくとも思い出し方とかこちらのやり方次第で色々な表情に変わるので、過去おもしろいなぁという発見。一度出会ったら人は人を失わない(神様のボート/江國香織)さらに大切になる。母の見えなくなるまで手を振るそれを、おばあちゃんのきらきらに重ねたり、はたまたわたしに重ねたり、時はたのしい。かんぽ生命の決め台詞でしめる。
おかしな人間の夢
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